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柿渋染めの匠−山本玄匠氏は、昭和14年鳥取県で生まれ、19歳で京都の大学に学びながら、染色工場で芸術の専門家を目指した。
その後、昭和40年〜平成10年までの約35年間、5社に渡って染色工場再建のために、持っている染色技術の全てを費やした。
60歳になった平成11年、友人の行う柿渋染めの存在に魅了され、独自の研究の末、これまでの柿渋染めの「茶系」のイメージを覆す、鮮やかな色彩の作品を作りあげることに成功した。
柿渋の原料はその名の通り渋柿であり、青く未熟な渋柿を臼などで粉砕し圧搾した後、2〜5年成熟させた液体が元となっている。
この柿渋に含まれているタンニンやシブオールは様々な効用があり、多岐にわたっての用途がある。
防腐剤、防水剤として木工品や木材建築の塗装の下地塗りに使われていることは比較的良く知られているが、民間薬として血圧降下や二日酔い、やけど・しもやけにも効果があるといわれている。
近年ではシックハウス症候群を起こさない塗料としても、着目されつつある。
また歴史も深く、古くは平安時代に侍が着ていた柿衣が始まりとされ、中でも宮元武蔵が巌流島の決戦で頭に付けていた鉢巻が柿渋染であったといわれている。
そんな長い歴史を持つ「柿渋染」だが「草木染」とは違い、原料である柿の「茶系」しか染色できないと言われていた。
しかし、玄匠氏は、それまでに修得した配色・調色・デザインの技術を駆使し、全く新しい「柿渋染」を高島産の生地を用いて完成させた。
その斬新で美しい伝統工芸ともいうべき作品が、世界の人々を魅了していくには、多くの時間を必要としなかった。
瞬く間に、独自ブランドを立ち上げ、東京ビックサイトIFF展、パリ・プレタポルテのボルトドゥベルサイユ(WHO’S NEXT 展)出展、来年には上海オリンピックに向けて北京店・上海店をオープン予定・・・と、今も世界へ羽ばたき続けている。
玄匠氏が、高島市安曇川町に「山本工房」を設立したのは、こうした世界的活躍を始めた頃と、時を同じくする。
玄匠氏が高島に初めて足を踏み入れたのは、芸術の専門家を志した19歳の頃であった。
京都市と大津市の間にある山中越えから大津の町並みを見下ろし、高島の自然が目に入ると、引き寄せられるようにそのまま自転車で高島までやってきたという。
その時見た安曇川河口付近の琵琶湖畔の情景が脳裏に焼きつき、30年が過ぎた平成元年、当時の想いを胸に、高島市に住居を構え絵画を中心とした芸術活動を始めることとなる。
玄匠氏は言う、
「遠方から戻ってきて疲れている時でも、自宅についた瞬間に創作意欲・想像力・インスピレーションが沸いてくる。高島の自然に囲まれることで、その想いは際立つ。そんな環境が自分にとっての高島なのだ。」と
「人に真似ができない作品を作るのは最もだが、自分だけが世間にアピールをしても仕方ない。私が創作できるこの琵琶湖の風景と高島市を全世界にアピールし、柿渋染という伝統文化を後世に残していきたい。そうしてこの町を活性化していきたい。」
畑の棚田、海津・清水の桜、朽木の生杉ブナ原生林、針江の川端・・・等など、高島にはあふれんばかりの自然が手の届く場所にある。
「近江聖人」として讃えられた、陽明学者 中江藤樹も、9歳で近江の国を離れ、30歳で近江に戻り私塾を開き、亡くなる半年前には高島の地に藤樹書院を開いたという。
心落ち着く場所を求めた結果、幼少期を過ごした高島の地を追憶したのかもしれないが、四季折々の情景、感情豊かな高島の自然がそうさせたのかもしれない。玄匠氏も高島の魅力に魅せられた一人である。
高島の自然は、この地で生まれ、この地で育った私たちが思っている以上に素晴らしく、かけがえのないものなのかもしれない。
そのことを改めて、山本工房の山本玄匠氏は教えてくれた。

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